五月病というものは本当にあって、知らず知らずのうちに五月に入ると気分が病んでいく。気づいたときにはもうすっかり気分は暗くて、友達にそのことを相談すると、それは五月病だよと言われたのだった。世間で一般的によく言われることを、しばしば忘れることがあり、人と似たバイオリズムで実は僕も生きているということがとても不思議でしょうがない。低気圧になればそのときもまた憂鬱な気分になるし、季節の変わり目になれば、あたりの陽の光を見てなんだか懐かしく思ったりする。そんなようなことは僕以外の人もよく口にすることで、スピリチュアルなことを言うわけではないけれども、大なり小なり人は、動物と同じように自然と一体なのだろう。
足の裏。それは普段見えるものではなく、陰部ほどに見られて恥ずかしいものではないけれども、とてもプライベートなものである。友人の、足の裏に走る一本の縦皺がぼんやりと見えたとき僕はすでに深く酔っていて、よくよくみると、身長が低く、小柄な彼の足はさらに小さく見えた。あぐらをかいて、テレビを見ながら酒を飲んで笑っている友人は、無防備で、その目を逸らすほどでない露出した体の一部は、彼の品性のようなものを物語っていた。
足といえば、僕が小学校に入学したときに、上級生たちの集まる部屋でもたくさん見た記憶がある。彼らも同じようにあぐらをかき、裸足で、サッカークラブに所属している上級生たちの靴下はとても汚く、その足の裏は水虫で、皮がめくれ、それら剥き出しの足は僕にこれからはじまるの学校生活の厳しさを予感させたのだった。
目の前にあった一本の足の裏の縦皺は、僕をあの頃の教室へと連れ戻し、僕の運命を占い縛るのだった。
ここに五枚の写真がある。左端の写真から五枚目の右端の写真まで、人物が雪の斜面をスキーで滑っていく動作がこのシークエンスの主題であるようだ。撮影者はおそらく同じ位置から主題の人物を撮影し、同じくこの雪の斜面に立っていたのだろう。左から右へと、滑っていく人物を斜面に沿って撮影者はこの情景をカメラで斜めに切り取っていく。ここで「滑る」という被写体の運動が、正確に、等間隔に撮影者がシャッターを切れないことを露呈させている。
画面内の二人の女性はゲームに没頭している。二人の視線と腕の傾きの線は交差してXを描き、その線の交点には女性が持つ手札が見える。カメラはその手札を窃視しているのだ。そして左にいる女性が右の女性の手札(画面の中心)からハートを抜き取ろうとしている。
2024/03/29
いつも通り自転車に乗って僕は緑道を走り、欅の木にはまだ葉がついていないけれどもそれらは、昨日の晩から今朝まで降った雨に濡れ、しっとりと春の訪れを予感させる色に変わった。並んでいる花壇にはちらほら開花した花も見えて、道路には木の皮が落ちていた。水分を含んだ木の皮を見ると口に入れて噛んでみたいと思うことがある。それらは想像するに、噛めば苦い汁がじわっと出てくるだろうけれども、柔らかくなった樹皮は歯形に沿って潰れるだろうからその感触は、とても心地よいと思う。
小さい頃鉛筆を噛む癖があって、それがなぜ治ったかは記憶していないがその時も、歯形にはまった木と口の中に広がる木材の香りはいま思うとタバコのようで、小学生の僕を立派な喫煙者にした。歯形のついた鉛筆を筆箱に並べていると決まって意地悪なやつが僕にその鉛筆を指差して、そのことについてからかうのだが、だからと言って僕は恥じることもなく几帳面にそれらをプラスチック製の青い筆箱に並べていた。
道具箱は秘密を作る最初の場所だった、ような気がする。そこには虫の抜け殻や女の子からの手紙、鼻をかんだティッシュ、糊、ハサミ、定規、パン屑など、種々雑多に物が詰め込まれ散らかり、ある時が来ると極端に整頓をはじめて、小さな建築家は間取りを絶えず変えてはものを入れ替えた。部屋というのは自分が入れなくてもよくて、四角い空間にものを隙間なく詰めることが僕の部屋だったのだと思う。